六島に住んでいる僕のおばあちゃんや、先輩方に色々お話を伺っている中で判明した
「六島は昔麦を盛んに作っていた」
ということから始まったビールプロジェクト。
開墾から麦の栽培、そしてビールづくりに至るまでに1年半。
それはもう沢山の人が応援してくださいました。
昨年の6月、笠岡の中央公民館の映写機でどこぞの麦畑の写真を映しながら
「六島で麦を作ってビール作りたいんです!」
と大きな声で、突拍子もないことをプレゼンをしました。
↑実際に皆さんにみてもらった画像。サッポロさんの広告やったと思います。
↑六島の耕作放棄地。
あのジャングルだらけの六島でこんなことできるもんか!と言われる覚悟でしたが
そこに集っていたみんなは
「なんか面白そう!」「耕そうぜ!」
と声をかけてくれて、実際に何度も足を運び開墾から麦の栽培まで手伝ってくれました。
岡山県最南端の島にです。本当にうれしかった。みんなドロドロになりながら開墾してくれました。
「ぼっけ―まち会議」のみなさん。本当にありがとう。
↑作業後の一杯やるシーン。これが楽しみでもありました。
麦も少し大きくなり、いよいよ麦踏の時期です。その時に山陽新聞さんが取材に来てくれていたのですが、踏んだ後の麦の悲惨な姿に、麦の知識が皆無な僕と記者さんは
「これ、ほんまにだいじょうぶなんやろか、、、。」
と顔を見合わせていたのを覚えています。しかもこればビールになる保証もないのです。
「これが育たないとウチとしては、、、」といいながら取材を続ける山陽新聞さん。
しかし翌日の朝刊には
「先人の知恵を借り、麦を栽培。耕作放棄地を復活させビールに!!」
と大きく書いていました。
山陽新聞さんは大きなギャンブルに乗ってくれたんです。
新聞社さんは事実を伝えるお仕事。記事になったからには失敗は許されません!
良いプレッシャーをかけてくださったと今振り返って思います。
そして、開墾からビールお披露目に至るまで遠い島まで何度も足を運んでは明るく取材してくださり、素敵な記事もたくさん書いてくださいました。
山陽新聞の斎藤さん、本当にありがとうございます。
↑写真左が斎藤さん。
12月、踏まれてペッたんこの麦もすべて立ち上がり、少し未来が明るく見えてきた頃、六島の麦をビールにしてくださる醸造所さんと繋いでくださったのが、美作大学の小川先生。田舎カレッジという地域プレーヤー講座のOBとしてプレゼンしたところ、声をかけてくださり、吉備土手下麦酒の永原代表に会わせていただきました。
↑写真左が小川先生。
1月、小川先生のご紹介で、吉備土手下麦酒にお邪魔して初めて永原社長と出会います。
自分の島の状況から、島で醸造所を立ち上げたいという内容をお伝えすると、
「できますよ!」
と力強く答えてくださいました。
この出会いから、小豆島に渡航したり、醸造作業にご一緒させていただく中で常にモノづくりに対する思いを時間をかけて一生懸命お話ししてくれました。ここまで一生懸命教えてくれる人って人生の中で何人出会えるでしょうか。
永原さんからは、ビールの作り方はもちろんですが、モノづくりに対する姿勢を教えていただきました。なぜ自分は六島で開業を目指すのかという根拠をはっきりさせることができたこと、そして醸されたビールの商品名「六島麦の始まり」は永原さんの出会いなくしてはあり得なかったと振り返ります。
2月。寒さのピークが過ぎますが、気温が不安定に上下し、麦の育成が気になるところ。発芽してからそんなに大きく成長していないので、なかなか心配です。
☆☆次回、春が来て麦が元気に。しかし!予想だにしない被害が麦を襲う!の巻き☆☆
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